カルマという言葉を聞いたことがありますか?
日本語では「業」と訳すことが多いですね。または、「行い」や「行為」と訳されることもあります。
自業自得という言葉を思い浮かべれば分かりやすいでしょう。
全ての人は、常に何らかの行為を行っていて、その結果を受け取っています。
すべての人は一瞬でも行為をしないでいることは出来ません。
この世の人々は行為(カルマ)に束縛されている。
と、クリシュナは説明しています。
一瞬たりともカルマから逃れられず、カルマの束縛による輪廻のため、幾度となく生が繰り返されてしまうとゆう考え方がインドにはあります。そこで、カルマの束縛からの解放を試みるのがカルマ・ヨーガです。
なーんて...
輪廻とか、カルマとか、そんな単語が出てくると、一気に哲学臭く、何やら非現実的な響きに聞こえてしまいますね。ヨガ・スートラの一行をお借りして、「ヨーガの練習によって除くべきものは、未来への苦である」とゆう観点を頭に置いたままカルマ・ヨーガを考えてみて下さい。少し身近になるかもしれません。
どうしてカルマが人々を束縛してしまうのでしょうか?
それは、私たちが結果(未来)に執着しているからです。
頑張って行動をしても、良い結果か、悪い結果か、未来は私たちには分かりません。しかし私たちは結果(報酬)のみを望んで行動をしてしまいがちです。だから、いつまでもカルマに束縛されたまま生きてしまっています。
それならば、何も結果を生まないために、行為を行わなければ良い?
出来るだけカルマを生まなければ輪廻から解放される?
実は、こう信じて、山奥で死ぬまで何もしない行を行っている一派もインドに存在します。
しかし、これも間違えですね。人は行為を企てせず、行為を超越出来ない。とクリシュナは説いています。
では、どうしましょう? クリシュナさんの教えてくれた答えは、
「祭祀の残り物を食べる善人は、全ての罪悪から解放される。」
簡単に言い直すと、全ての行為を神(クリシュナ)への祭祀として行い、その結果として与えられたものは有りがたく受け取りなさい。とゆうことです。
これだけ読むと、またまた宗教臭いですが...
もっと優しく言い換えると、結果に執着することなく、やるべき事をやりなさい。とゆうことです。それだけ?と言いたくなりますが、それが難しい...。
だから、執着することなく行為を行う人は、最高の存在になれると説いています。
身近な例えでは、ヨガのクラス中、「もっと難しいポーズを綺麗に出来るようになりたい!」と思いながら練習していませんか?「ポーズの完成」とゆう結果に執着してしまうと、ヨガをしているはずが、どんどん貪欲な願望に埋もれてしまいますね。
ところで、インドで最も有名なヨガの学校、ビハル・スクール・オブ・ヨガの創設者でもあるスワミ・サッチャナンダ先生が若い頃の話です。当時サッチャナンダ先生は、リシケシのスワミ・シバナンダ先生の元で修業を行っていました。シバナンダ先生は弟子のサッチャナンダ氏に一人の重症患者を与え、患者の身の回りの世話をすることを命じました。
「あなたはヴィシュヌ神です。患者をナーラーヤナ(ヴィシュヌの妻)として、尊敬の意をもってお世話をしなければなりません。」
サッチャナンダ氏は何年も、患者が亡くなるまで、献身の介護を行いました。偽善ではなく、ただただ患者への尊敬の思いを抱いて。
今でもこのようなカルマ・ヨーガの修業が沢山の弟子によって行われています。
スワミ・サッチャナンダ先生が言っていました。
「ある人は瞑想が出来ないだろう。あらゆるヨガの練習が出来ないだろう。だけど、カルマ・ヨーガは出来る。」
特別な事をする必要はありません。
自分が行うべきことに敬意をはらって行う事がカルマ・ヨーガではないでしょうか。
Hari Om…
この記事を執筆した先生
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yuka先生 (ヨガ講師・バンスリ奏者)
ブログURL
http://s.ameblo.jp/aiiro-beniiro/page-3.htmlインドを拠点にヨガとインド古典音楽の勉強を続けています。様々な形でアシュタンガヨガ、ハタヨガの指導。
・Tattvaa Yoga Shala-Ashtangayoga Teacher training 500hrs. (RYT500 取得)
・International Bansuri Academy 在学中