台風吹き荒れる福岡で、ワナカムヨガスクールの秋ツアー最初となるワークショップに参加してきました。
2日間行われたワークショップの内容は
①ヨガセラピー
②マスターフロー
③指導者向けArt of teaching
④ヨガスートラon the mat
今回のワークショップで一番考えさせられたのはまさにその“考える”ということでした。
どのクラスにおいてもマスター・スダカーはシンプルな言葉で問いかけます。
ヨガセラピーとは?
ヨガが何を変えたのか?
呼吸とは?
ヨガを教えるということとは?
自分とは?
どれも改めて問われると回答に詰まるものばかりで、いかに普段の自分が「考えているつもり」であったかということを認識しました。
私達はある意味盲目的にヨガが自分を変えてくれた・ヨガをして何かが変わった、などといった様に、何かに救いを見出し、過程を飛ばして“回答”に飛びつきます。
しかし、これこそ“考える”ということをしていないことそのものだったのです。
ヨガが人生を変えることはなく、自分自身と向き合うきっかけになるだけのことで、何かを変えるには自分の習性、自分自身を根底から変えなければ、ヨガが自分を変えてくることはないのだと。
自分の心が自分にとって敵(よくない影響を及ぼすもの)となるか、良い友達となるか。
マインドが自分自身の体とどう繋がり、相互がどのように影響しあっているかを考えることなく、何かしらのストレッチと緊張を体に与えるだけでは意味がないのだと。
ヨガとは、それ自体がセラピーでありマインドというものはコントロールするものではなく理解するもので、アサナの練習においても体に力を入れることではなく、いかにリラックスするかが大事であるということを教わりました。
そのアサナの練習において、ワナカムヨガスクールでは時にこういう光景が見られます。
あぁ・・・痛そう。いや、確実に痛いんですコレ(笑)
ポイントはこの「痛み」というか「痛い」という言葉にあります。
私達は、身体に衝撃を感じた時、「痛い」という以外の表現を知らず、他の言葉を持たず、「痛い」と思いがちですが、実際これは痛いのではなく、未だ意識をしたことがない部分に初めて意識を持っていった時の感覚であり、ヨガ的に言うならば、気付きが訪れた瞬間、ということであり、その身体の部位の緊張を解放しているだけのことなのです。
とはいえ、やはり私達はこの感覚を他の言葉で認識することが難しいので、ついつい
「痛いーーーーー!!!」となってしまいますが。
そして、こういう事を自分の体で体験し、自分自身で知らず知らずに引いている境界線を越えることを経験することなく、ぬるま湯に浸かったような、快適ゾーンに身を置いていては、人としての成長はありえないのだと、マスター・スダカーは言います。
そうした自己経験なしに、他者へ伝達することなど不可能であり、体験に基づかない指導者は、伝書鳩のようなものだと。
指導者向けクラスのはずが、指導者である前に、まず生徒であれ、と。
良い先生になる前に、自分の“生徒としての資質”を問うべきであると、説くマスター・スダカー。
自分自身がまずは生徒となり、正しく学び、自分自身の指導者になれなければ、他者が自分に心から身を任せるわけもなし。身をもって体験し、自分の主導権を持つこと。
そしてそれを正しく行っていくこと。アサナの練習においても、どこをどう動かすか自分の思考を自分自身の身体の部位にきちんと命令できるか、ということに繋がっていくのだと思います。
正しい練習を続けていくことの大切さはこうやってワナカムヨガスクールのティーチャートレーニングコースを受けたヴィジョンオブヨガ卒業生のアサナからも伝わってきます。
こんなポーズも笑顔でできるほど。
ただし、またここで私達はついアサナの美しさに憧れ、最終ポーズを目指しがちですが、大切なのは最終ポーズに至る過程であり、アサナで一番重要なのは、その見た目ではなく効能であるということを忘れてはいけないですね。
ヨガとは、あくまでサマディに到達するための過程であるように、人生においても完璧を追い求めることなく、人生もヨガ同様日々の過程が一番大事であるとするならば、今自分がすべき一つ一つと丁寧に向き合いマットの上で学んだことをマットの外でも活かせるよう、盲目的、刹那的に生きるのではなくその瞬間をしっかり捉え、考え、こうしてマスターが植えてくれる“考える”という種をしっかり育てていければ、と思いました。
台風到来という荒れ模様の天気の中のワークショップ参加でしたが、良い意味で自分の中に新しい混乱が生まれ、それについてきちんと向き合い考えられた時、台風一過のようにクリアになる日が来ると信じて、日々の練習、日々の生活を送りたいと思いました。
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