今回はニヤマの五つめイシュワラ・プランダーラについてです。

ニヤマ イシュワラ・プランダーラについて

ニヤマの最終段階であるイシュワラ・プランダーラは「自在紳祈念」「神への献身」「自信」などの意味合いがあります。全知の神の存在を受け入れて、自分の精神や行いを神に捧げるというものです。

イシュワラ・プランダーラの実践とは?!

より高い力のものや人に対して、自分の限界を受け入れましょう。限界を受け入れて自分の成し遂げようとする心を放棄することでその呪縛から解放されることになります。自分よりも高い力をもつものは自分の周りにいくらでもありまた自分の中にもあると言うことを理解すると人生の意義を見出すことができます。

イシュワラ・プランダーラの効果とは?

イシュワラ・プランダーラを実践して自分を解放することにより八支則の最後の教えである「サマーディ」(三昧)を経験することができます。アサナ(ポーズ)が無理なく行うことができ、身体的にも知性的にも欠点がなくなった状態で身体と心と自我を一体化しながらポーズをとることで初めてイシュワラ・プランダーラが完成したことになります。

イシュワラ・プランダーラと神

ヨガの書物の中ではどの神様も名前がついていません。ヨガを行う者、一人一人にゆだねられていますので神様の代わりに理想を体現する人に祈りを捧げることもできます。

イシュワラ・プランダーラ

自分の行動と意志を神に捧げることが、イシュワラ・プランダーラである。
神を信ずる者は、いかなることにも失望しないで、常に心に光をもっていることができる。
すべての存在が神に属することを知っている者は、うぬぼれの心に汚されたり、権力に飲み込まれたりしないであろうし、また利己的な目的のために、悪に屈したりするようなこともありえないのである。
彼らは、当然敬意を表すべきときのみ頭を下げるのである。
捧げる心を伴わない肉体的な力は致命的なものであって、強い人格の伴わない崇拝は鎮静剤のようなものである。
楽しみにのみふけると、力と栄光は壊れてしまうであろう。
また、楽しみのみを追い求めると、一つの楽しみの満足感を得ると同時にそれが次から次へと欲望を呼び起こし、その欲望が満たされないと悲しみが生じるから、知識と自制によって、この欲望をコントロールしなければならないのである。
しかし、この心のコントロールは最も難しいことである。
自己の能力と、エネルギーと財産のすべてを使いきっても、なおまだ成熟できないとき、はじめて人はすべての力の源である神に目を向け始めることであろう。
そうしてこのとき、バクティの段階に入ることができるのである。
バクティの段階での心は、神に捧げている心であり、「私は何をすべきかわかりません、神の御意志のままに、おまかせします。」と祈る心にもなりうるのである。
しかし、俗人のほとんどは自分の欲望が満たされ、それが成し遂げられるようにと祈っているのである。

バクティあるいは本当の愛の心には「私」とか「私のもの」とかいう心は存在しないのである。
だから「私」とか「私のもの」という感情が失われたとき、個人の魂は最高の成長を遂げたと言えるのである。
心から利己的な欲望がなくなると、人間の心は神の心で満たされるのであり、反対に利己的満足感で心が一杯になると、欲望の対象物を追い続ける危険性があるのだから、欲望を空にすることなくバクティを実行しようとすることは、ぬれた燃料で火を起こそうとしているようなものといえる。
欲望で満たされた心は、けっして発火も白熱もしないし、知識という炎に達しても光と熱は生じないであろう。

神とは、ちょうど太陽のようなもので、暗闇を取り除く光である。
月が太陽に面したときに輝くのと同じように、人の魂も神に面したときに満ち輝くのである。
地球の影が満月と太陽の間に来ると「触」が起こるように、「私」とか「私のもの」という感情が、心の平和を得るためのすべての努力を無駄にするのである。
行為は言葉よりも、その人の個性をよりよく映す鏡となる。
ヨギは、自分のすべての行為を神に捧げる芸術であると認識しているので、自己の中に神性を映し出すことができるのである。

参考:ハタヨガの真髄より