厳しい菜食主義者は根菜類(ニンニク、タマネギ、イモ)やトマトを遠ざけることは説明した。
それらをも嫌がる者は、くだものや少量の穀物によって命をつなぐことになる。
それではこうした食べものを断った場合、一体何で命をつなげばいいのか。
インド古代の文献は、きわめつきの苦行について紹介している。
ヒンドゥー教叙事詩『マハーバーラタ』などに述べられているのがそれだ。
『マハーバーラタ』は、苦行者が断食にいたるまでに、どのような食生活を送るべきかについて説明している。
苦行者は一足飛びに断食に入るわけではない。
何段階かの準備期間がある。
まず、くだものや球根だけで生活する期間がある。
家を捨てて森に入った修行者が、はじめに守らなければならないのがこれだ。
次に、「菜食」すなわち、木の葉、葉菜、枯葉、苔などを食べる段階へと進む。
このへんまでは、いわば固形食だ。
枯葉には閉口するが、我々の常識でもなんとかついてきける。
それ以降の段階がいかにもインド的である。菜食をすてた行者は、次に「水食」にいたる。「水食」とは、液体食、流動食のことだ。
具体的には、牛がもたらす五つのものー牛尿、牛糞、牛乳、酸乳、ギー、のほか、果汁、泡などを摂取して生命を保つ。
日本語で「泡を食う」といえば別の意味になるが、インドでは文字通り泡を食べるのである。
泡は、インドの哲学書などで「はかないもの」、「価値のないもの」にも喩えられるから、泡を食べる暮らしがいかに慎ましいものかがわかる。
叙事詩のなかに、牛尿、牛糞、牛乳、ヨーグルト、バター、聖なる草の煎汁だけをとる食事が紹介されている。
典型的な「水食」メニューである。しかし、苦行はこれで終わらない。まだまだ先があるのだ。
『マハーバーラタ』は、さらにその上の「風食」という段階を設けている。
これはいわば霞を食べる生活だ。
煙や蒸気、光線を食べて命を繋ぐという(光線を、1つ前の「水食」に含める考え方もある)。
この状態に至りながらも、行者はなお黙々と修行に勤しむ。
この段階を通貨したあと、修行者は最後に絶食し、飢餓を経て最終的には餓死へと向かう。
食事の節制や絶食は、大きな徳を積む行為と信じられていた。
『マハーバーラタ』の一節は、断食が不殺生・不妄語(嘘をつかないこと)・布施などより功徳が大きいことを強調している。
ただし、節食や断食が、不殺生の徳と深く関連していることは、見たとおりである。
ジャイナ教でも、絶食へ至る道筋は基本的に同じである。はじめに固形食を控え、のちに液体食を断って、最後は水も拒む。
これが「サマーディ」と呼ばれる方法である。
ジャイナ教では、断食と苦行とを同じものと考えているという。
ヒンドゥー教 インドという謎 から引用